偽善について僕は思う。
何かいいことをするときに、
だれかが、ほめてくれるからとか、
素敵なひとって思ってもらうためとか、
あるいは、直接的に、
自分の会社や自分のレピュテーション(評判)を上げたいから、
いいことをして目立とうとする。
そんなとき、裏の目的があって、良い行動をするとき、
ひとは偽善者とそのひとを呼ぶことがある。
りっぱなビジネス、素敵なビジネス、りっぱな人間、
そう思われたいがために、
そうして自分に何かしらの利益を得るために、
だれかにいいことをする。
それを偽善と呼ぶことがある。
僕は思うんだ。
偽善でもいいじゃないかって。
それは、純粋な美しいこころで、なんの見返りもなく、
ひとに施し、愛を与えられたらそりゃ素敵だよね。
僕もそういうひとを尊敬する。
でも、僕らは凡人だ。
声高に、地球温暖化に反対することも、
お年寄りに席をゆずってあげることも、
「素敵な考えだね。」
「席をゆずってくれてありがとう」
そんな言葉を期待しちゃうよね。
例えば、席を譲ってあげたときに、
ぶすっとしたまま、何も言わずに座って、
幸せそうな顔をしていたら、
ちょっといい気分じゃないよね?
自然なうちに、相手からの
「ありがとう」
を期待しちゃっているんだ。
情けないけど、そういうもんだ。
だれかに、いいことをしたときは、
評価をしてもらいたいんだよね。
ださいね。
だけど、僕はそれでいいと思う。
偽善でも、何でも、誰かに評価してほしくて
やっていることでも何でも、
誰かのためになる<行動>をしているひとを僕は評価したい。
ひとのことをあんなの偽善だよって批判して、
何も行動をしていないやつの100万倍素敵だ。
偽善でも何でも、
誰かのために何かしてあげようって思う事は、尊い。
そして、だれかの感謝がほしくてやった行動でも、
「ありがとう」って言ってもらうことで、
そのひとの心は美しくしてもらえる。
どんどん美しくなっていく。
そして、そんなことを続けていくうちに、
僕らは、本当の意味で、
よい行いができるのかもしれないね。
偽善でもなんでもいい、
誰かのためになることをやってあげようよ。
積極的に取り組んであげようよ。
おせっかいって言われるくらい、
誰かのためにエネルギも、お金も、時間もかけてあげようよ。
だれかの批判にしぼんじゃだめだ。
同情してるだけのやつって
結局、
ひとの不幸に快感を覚えているようなやつが多いと思う。
もし、そのひとの境遇に共感できるなら、
手を差し伸べてあげようよ。
行動しようよ。
それができないなら、同情なんてすんなよ。
僕は同情なんてされたくない。どんな状況だって、
同情なんてされたくない。
だから、だれかを同情なんてしない。
ただ、共感して、自分のできることをしてあげたい。
行動するなか、たとえ偽善であったとしても、
ひとは成長できるんだと思う。行動しよう。
JUST DO IT
やろうぜ。堂々と、偽善の行動をやってやろうぜ。
ひとの批判ばかりしているクソやろうに負けんなよ。
ねぇ、みんな行動しようぜ!
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