ふじたなおゆきの議〜日々是感動〜

何が悪で 何が善 なんて全く分からない

みんな行動の基準って持ってますか?

何が正しいか、何が悪なのか、そんな基準を持っていますか?

 

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他人を殺すことはいけないことなのか?

常識ってなんだろう?

僕は時々、そんなことを考える。

なぜひとを殺すことはいけないのだろうか?

善悪という判断自体が非常にあいまいだ。

客観性をもって明確に、

悪い、いい、ということを言いきれるひとなんているのだろうか?

誰かに、それは悪いことだ。

それはいいことだ。

なんて、言う権利が僕にあるのだろうか?

そんなことを考える。

みんなはどう?

 

例えば、「ひとを殺す」という行動についても、

悪いことだと僕は思うが、

戦時中なら、

戦勝国のそれは、英雄で、

敗戦国のそれは、戦犯だ。

それこそチャップリンの映画ではないが、

1人殺すことは、犯罪だが、

100万人の殺戮は英雄になってきた歴史がある。

 

ならひとを殺めることはいけないことなの?

 

僕が国際政治の世界で研究者になり、

学ぶ中で、この問いはとてつもなく大きい問いになった。

 

いい、悪い、で世の中明確に区切れたら、

どれほど、楽だろう。

しかし、この人間界は、そこが明確でないから難しい。

自分のとるべき行動が判断できないんだ。

 

僕の専門は安全保障という分野だ。

 

そこで最も難しいテーマが実はこれなんだ。

寄って立つところがないんだよ。

 

ひとを殺すことはいけないのか?

正義とは何なのか?

 

僕は一生かけてその問いと向き合っていくんだろう。

そしてそれは、安易に応えを出すことができない問いなんだ。

 

ちょっと分かりづらいね。

 

たとえば、

日本人が大好きな歴史上の人物って誰?

 

1位にあげれることが多いのが

織田信長だ。

 

僕も彼のある部分はリスペクトする。

だけど、間違いなく、

ある一面では、

彼は殺人鬼だ。

彼が殺戮した人数は、数千人という単位で納まるだろうか?

だけど、その殺人鬼が、

この日本では今は英雄なんだ。

 

もちろん、イラク戦争開戦時のブッシュ大統領、

彼の行いを殺戮と捉えることもできるし、

それをバックアップした小泉さんは、

人殺しの手助けをしているというとらえ方もできるし、

実際、そう捉えているひともいる。

 

もう1度言うけど、

僕は織田信長や、小泉さん、ブッシュ大統領の行為を

善、悪、という二元論でまだ評価しきれていないと言っているんだ。

ある意味それは逃げかもしれないけど、

そうなんだ。

 

僕がNTT時代、はじめて国際政治の本に触れた日、

そこにはこんなことが書いてあった。

 

「皆さんの目の前で、

全く罪のないひとが次々に銃殺されています。

アウシュビッツ顔負けの状態です。

まず、10人。

そしてまた10人が並べられ、銃殺。

また10人が並べられ、銃殺。

あなたはそのひどい行為を止めに入ります。

それを指示している上官にあなたは、

やめるようにいいます。

 

ひどいじゃないか。

いますぐやめろ。

 

上官は全く聞かず

また10人を銃殺。

そしてまた10人を銃殺。

あなたは、また食ってかかります。

 

すると上官があなたに言うんです。

 

分かった、

それでは次の10人のうち、

お前が、

誰かひとりをこのヤリで

さし殺したら、

残りの9人を助けてあげるかもしれない。

そして、その次のグループの一人を

お前が刺し殺したら、

残りの9人を助けてあげるかもしれない。

 

そんな条件を出された。

 

あなたはそのときどうしますか?

 

圧倒的な武力を誇る

その上官と、あなたが闘うことは不可能だ。

あなたの選択肢は、

自分ではひとを殺せないと、

その場から逃げることか、

あるいは、ひとりを自らの手で殺し、

確実ではないが、

9人の命を助けようとするか、

どっちかだ。

 

何が正しい。

あなたが殺人者になることが正しいのか?

あなたは、その10人からひとりを選べるのか?

それとも、自分が殺人者になることを避けることが正しいのか?

それとも、勝てない戦いを上官に挑み、

あなたも、死に、あなたの残った家族を苦しめ、

そして、10人づつの殺戮が続く状態を続かせるのか?」

 

僕の専門分野は、

そんな問いとの闘いだ。

 

善・悪。

あまりにも難しい問いが横たわってる。

 

過去、すべての戦争が、

正義の名のもとに行われてきた。

 

ヒットラーのした戦争だって、

彼なりには理屈があり、

正義の戦争だった。

十字軍だって、

オサマビンラディンだってそうだ。

みんな自分が正義だと言っている。

 

人間の価値観を確定することがいかに難しいことか。

 

それが分からず、自分の価値観がいつも正しいと思う僕がいる。

科学的だと勝手に思い込み、

そして、科学的なことは正しいことだと考える自分がいる。

常識は正しいと考える、

科学は正しいと考える、

TVの言うことを鵜呑みにする。

アメリカの意見が正しいと思いこむ。

 

僕は、「疑う」心が重要だと思っている。

その疑う心を持ったうえで、

「信じる」ことが力になると感じている。

 

あの日、

ガリレオが天体望遠鏡を作った。

当時の叡智を集め、

お披露目をした。

みろ、あんなに遠くにある葉っぱの上のてんとう虫の

模様の数を数えられる。

みろ、あんなに遠くにいる鳥の首筋のしわまで見える。

 

おぉぉぉぉぉぉ

 

会場の大科学者たちは絶賛する。

 

次に、ガリレオは、

夜空の星を見せる。

みろ、月は真丸ではない、

凸凹がいっぱいあるんだ。

次に夕方の太陽を見せる。

みろ、太陽には、黒い点がいっぱいあるぞ。

 

それを見た大科学者たちは、罵声をガリレオに浴びせる。

 

この機械は、

地上では使い物になるが、

天空では使い物にならない。

完璧な動きをするはずの天空の月に

でこぼこがあるわけがない。

完璧な太陽に

黒いところなんてあるわけがない。

 

ガリレオは否定され、

望遠鏡は地上の物体を正確に映し出すが、

天空を見るのには

無用の長物であると決定される。

大科学者たちにだ。

だれひとり、

ガリレオを擁護するものがいなかった。

当時はガリレオ以外の人間が科学であった。

そしてそれが最先端の科学だったんだ。

 

当時の常識がそうさせたんだ。

 

話が飛躍しすぎたかな。

 

僕は今回2つのことを書いた。

 

ひとつは、

「善・悪」を判断することの難しさ。

そして、もうひとつが、

「科学的常識」のあいまいさだ。

 

こんな風に僕らは、

あいまいさの上に生きている。

 

何が正しく、

何が本当なのか分からない。

 

そんなものの上で生きているんだ。

 

じゃぁ、どうやってお前は、行動の判断をしているんだ?

 

そう聞かれると思う。

 

今、明確に「これだ!」って言える僕はいない。

 

もし、何かひとつ言えるとしたら、

僕は、

大輝に堂々と言えることはやるし、

大輝に堂々と言えないことはやらないようにしようって思っている。

堂々と息子にやっていることが言えるのか。

それを行動の基準にしている。

それは客観的な指標ではない。

ただ、自分の心の中の良心との対話だ。

法律にあっているかもわからない。

地球にプラスになるかも分からない。

だけど、そこは確実に、

僕の心の賛同を得ている場所。

大輝に堂々と言える行動をとること。

それが今、僕が一番安心して

選べる行動基準のひとつなんだ。

 

歴史がどう判断するかなんてわからない。

だけど、今、僕の心の奥底が正しいと判断する行動基準、、、、

それが、「大輝に堂々と言えるか」という基準だ。

 

みんなはどう思うかな?

 

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